ふれーゆ裏たぬきのトリック仕掛釣り日記

横浜港奥の『昼間は釣れないふれーゆ裏』での夕まずめ釣りをメインに1年中、アジ嬢を追いかけまわしております。

ふれーゆ裏がある埋立地、横浜市鶴見区末広町とは?^ ^(竿休め20210131)

横浜市歌

わが日の本は島国よ

朝日かがよう海に

連りそばだつ島々なれば

あらゆる国より舟こそ通え

されば港の数多かれど

この横浜にまさるあらめや

むかし思えば とま屋の煙

ちらりほらりと立てりしところ

今はもも舟もも千舟

泊るところぞ見よや

果なく栄えて行くらんみ代を

飾る宝も入りくる港

横浜市民なら小学生時代に無理矢理、歌詞の内容もわからずに歌わされるので、多分、誰でも歌える横浜市歌

そして、神奈川県に横浜市は位置していますが、例えば埼玉県の友人に「何処に住んでるの?」と聞かれた場合、神奈川県とは答えません。

当然、横浜市と答えます。でも、今はわかりませんが、埼玉県の友人は横浜市=海が見えると思っている奴が、以外と多い。

でも、実際の横浜市は海沿いの地域より、圧倒的に丘陵地や川沿いの地域が多くて、たぬき親父が子供の時には、ど田舎同然。

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小学生頃から、大倉山駅周辺に住んでましたが、周囲はハス沼や田んぼ、畑だらけ。夏の昼はセミ、夜はウシガエル騒音。

今と違い、洒落た店舗なんかは皆無な、マジにど田舎の町でした。ここまでが前置き^ ^

たまたま、テレビ朝日の「激レアさんを連れてきた」を見ていたら、「職歴ゼロ主婦が、39歳で初めて就職。運命に翻弄された結果、ドムドムハンバーガーの社長になっちゃった人」と言うのをやってました。

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ハンバーガーチェーン「ドムドムハンバーガー」は、最盛期には全国に400店舗。現在は26店舗にまで減少した「絶滅危惧種バーガーチェーン」。「ハンバーガーチェーン店舗数ランキング」では12位なんだとか。

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たぬき親父がまだ小学生で、横浜市東横線大倉山駅に生息していた頃、駅チカにスーパー「サンコー」が開店しました。

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そこの入り口付近に開店したのが「ドムドムパーガー」で、たぬき親父が初めて食べたハンバーガーは当然、ドムドムバーガー。

確か、テイクアウト方式の店でした。味は美味くも無けりゃ不味くもなく、特長も無く、印象に残らない感じでした。

その後は綱島日吉間にサンテラス日吉が開店して敷地内にマクドナルドが開店。また、レストラン・デニーズも開店。

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デニーズに夜、用も無いのにたむろして、当時メニューにあった、デニーズのハンバーガー、デニーズコンボがお気に入りでした。

大倉山駅ドムドムバーガーは、気がついたら閉店して別の店舗になっていました。番組を見てからネットで調べてみました。

すると、当時の巨大スーパーチェーン「ダイエー」が米国マクドナルドと共同出資会社を作り日本進出を計画していたんだとか。

実現しなかったのは、マック側が共同出資50%を要求。イニシアチブを取りたいダイエーは51%を要求してまとまらなかったからなんだとか。

ダイエーは独自に日本初のハンバーガーチェーン「ドムドムバーガー」を子会社として設立。傘下のスーパー店舗に続々とオープン。

その後、米国「ウェンディズ」と契約。「ドムドムバーガー」店舗を「ウェンディズ」に店舗替え実施を開始。

なんやかんやあって、飛ぶ鳥を落とす勢いで、プロ野球界にまで進出したダイエーは、オーナー不正等もありガラガラポン^ ^

ドムドムバーガー」も売却されて現在は独自メニュー等を開発して、現在も生き残り、結構、善戦しているんだとか。

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番組でも、ソフトシェルクラブ(脱皮したての柔らかいカニ)を丸揚げした奴を挟んだバーガーを期間限定で発売、大人気とか。

調べたら、近所には「ドムドムバーガー」は無くて、三ツ境とか厚木にはある様子。行ってみるかなぁ?

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そんなこんなで調べていると、そういえば、普段、釣りをしている、ふれーゆ裏を含む、この広大な横浜市埋立地横浜市鶴見区末広町)は、ナゼ?どの様にして出来たのか?

テレワークで通勤時間皆無の、時間的にヒマがある、たぬき親父は、ふと考えました。

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そもそも寒村だった横浜村。特に鶴見川流域や河口付近は湿地や沼地が多くて、平野部も少ない土地だったようです。

日頃釣りをしている、ふれーゆ裏も元は海。埋立地として、現在に至った場所になります。ネットをググると過去から現在に至る変革が読み取れます。

ふれーゆ裏がある末広町は、鶴見区南部の、鶴見川左岸河口付近に位置。総面積は2.305km2。JR鶴見線弁天橋駅付近の水路を境にして、西が1丁目、東が2丁目となっています。

全域が工場等で占められ、1・2丁目とも人口はゼロ。だからコンビニ等の商業施設が無い陸の孤島なんですね。

南は海に面し、東は旭運河を挟み安善町、西は鶴見川を挟み、生麦2丁目および大黒町、北は鶴見線を境に小野町・弁天町に接しています。

神奈川県道6号東京大師横浜線産業道路)には鶴見川を渡る鶴見大橋が架かり、その上部には、首都高速神奈川1号横羽線の高架橋が通っています。

JR鶴見線には、町内に浅野駅・新芝浦駅・海芝浦駅、弁天町の当町隣接地に弁天橋駅が設けられています。

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このほか、川崎鶴見臨港バス鶴見駅東口と1丁目南部のふれーゆ、川崎駅東口と2丁目の新芝浦駅近くの東芝京浜を結ぶ路線バスを運行しています。

1914年~1915年(大正3~4年頃)、第一次世界大戦当時に、鶴見埋立組合(現在の東亜建設工業)により、埋立が始められた土地で、1916年に1丁目の一部、1922年に2丁目に相当する部分が竣工したようです。

1916年10月15日に、神奈川県橘樹郡町田村字末広の地名が付けられたようです。末広の名は、鶴見埋立組合創業者の浅野総一郎の家紋から採られました。

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末広とは、場所に似つかない、縁起が良い地名だと思っていたら、一代で浅野財閥を築いた浅野総一郎横浜市鶴見区から川崎市の海岸の埋め立て工事を計画。

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大正から昭和の初めにかけて、約15年間に及ぶ年月をかけて完成、浅野さんは、浅野造船所(後の日本鋼管、現JFEエンジニアリング、及び、現ユニバーサル造船)など多数の会社を設立。

その後、第一次世界大戦の特需を受け、一代で浅野財閥を築いた。浅野セメント(現在の太平洋セメント)、浅野中学&高校設立者でもある方ですね。

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JR京浜東北線車窓から子安の山側に見える、浅野工学専門学校も、この方が創始者なんだそうです。

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結構、興味深い人物なんで、そのうちに、某ボッタクリ元国営放送が朝ドラ化しそうな感じがしますね。

工事埋立地事業の発端は、財閥立ち上げ前の商人時代に、横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた、竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋を足掛かりにしていった事もある様子。

町田村は1923年4月1日に潮田町に改称し、1925年4月1日に鶴見町編入。1927年(昭和2年)4月1日には横浜市編入

同年10月1日には区制施行により、横浜市鶴見区末広町となりました。

1916年に浅野造船所(現在のジャパン マリンユナイテッド横浜事業所鶴見工場)と旭硝子(現在のAGC)、1917年に浅野合資会社製鉄部(日本鋼管京浜製鉄所を経て、現在のJFEスチール東日本製鉄所)が操業。

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1923年9月1日の関東大震災では、工場2棟が火災を起こし、社宅の多くが倒壊。1925年には芝浦製作所(現在の東芝京浜事業所)が開設。1926年3月に浜川崎駅と弁天橋駅の間に鶴見臨港鉄道が開通。

1930年10月には弁天橋駅から鶴見仮停車場まで延伸(鶴見駅乗り入れは1934年12月)、1932年6月には浅野駅と新芝浦駅の間の支線が開通、1940年11月には海芝浦駅まで延伸。

鶴見臨港鉄道は1943年に国有化され国鉄鶴見線となり、1987年には民営化により東日本旅客鉄道の路線となりました。

第一次世界大戦後の不況対策として、神奈川県の事業で1929年から1932年にかけて、1丁目の南部の埋立を拡大したようです。

この土地には芝浦工作機械(法人としては現在の芝浦機械。工場は、東芝京浜事業所のタービン工場)や鶴見曹達(現在の東亞合成)などが進出した。

2丁目には、昭和に入り協同国産自動車(現在のいすゞ自動車)が工場を開設した。第二次世界大戦での空襲の被害はわずかでした。一部の工場は米軍に接収されたようです。

1995年4月には1丁目の南端に、横浜市環境事業局鶴見工場(清掃工場)が稼働を開始。

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翌1996年7月には、余熱を利用した温水プールや温室を備えた高齢者保養研修施設「ふれーゆ」がオープン。

2000年に理化学研究所横浜研究所が発足、環境資源科学研究センター・統合生命医科学研究センター・ライフサイエンス技術基盤研究センターが開設されました。

翌2001年には横浜市立大学鶴見キャンパス生命医科学研究科が開設され、理研と連携した研究を開始。2017年6月には、1丁目の旭硝子の敷地内にユーグレナによるバイオジェット燃料実証プラントの着工が予定されているんだとか。

そんなこんなで。昼間は釣れなくても、陸の孤島であっても、24時間釣りを楽しめる、ふれーゆ裏埋立地は、出来上がった訳です。

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ふれーゆ裏から、扇島から昇る朝陽を眺めたり、つばさ橋下を行き来する、航空母艦の様な、デカい自動車運搬船を眺めたり。

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たぬきに夕飯を取られたり、サカナをカワウに横取りされ、ヤブ蚊に刺されまくり、横浜火力発電所に沈む夕日に感激して、釣りが出来る事に感謝ですね。

まだまだ、外は寒くて、更に不要不急のコロ助特別警戒宣言発令中の横浜市。その割には、山下町ガンダムドックがオープンしたり、ふれーゆも時短営業でオープン。

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神奈川県とは足並みが揃わない横浜市は唯我独尊で、知らない間に本牧沖埋め立て工事も開始。

でも、本牧海釣り施設の流された、渡り桟橋も、工場には発注しているらしく、出来上がったら牽引してきて設置するらしい。

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本牧沖を埋め立てようが、ガンダムが消えた山下埠頭をカジノにしようが、どうでも良いけど、渡り桟橋は最優先でお願いします。

さて、次回は、ふれーゆ裏の秘密を公開して行きます。多分、役に立つ?ので、ふれーゆ裏での釣りの際の参考にして下さいね。