6/18(日)は父の日。たぬき親父も成人&とっくに社会人の長女、長男の父親。大した事は何にもしてないけど、毎年、祝って貰っています。
今年は家族4人揃って、横浜・本牧にある、いなせ寿司🍣に。何が良いでは無くて、かみさんも好きな寿司に決定。
家族のおごり寿司。まぁ、たぬき親父もサカナ好き出し、二つ返事でOK。なんだかんだで、当日を迎えました。
最寄り駅から横浜駅経由で桜木町駅。桜木町駅前は休日の為、大賑わい。こちらから本牧行きの横浜市営バス🚌に。
目的地の千代崎町停留所までは約15分程。寿司屋前に多少、入店待ちの人数が数組みいたものの、10分待ち程度で入店。
かみさん以外は、握り寿司🍣のセット物を注文。今日、握るのは若旦那では無くて、年配の従業員。
こちらが、たぬき親父の注文品で、次の画像が長女が注文したもの。さて、違いがわかるかな?
追加で、赤エビ🦐と鉄火巻きを注文して、満腹状態に。多少、値上がりしたものの、他の寿司屋より安価なのでヨシ^ ^
店を出て、長女が山手の有名パン屋ブラフベーカリー🥐に行きたいと言うので、本牧から山手まで徒歩で移動。
本町方面に少し戻って、北方小学校交差点を左折。少し入った左側に、皇紀起源2600年記念石碑がありました。
父親、母親が小学生時代の話では、1940年(昭和15年)の大東亜戦争(当時の名称)開戦前の皇紀起源2600年を記念した国を挙げての、大イベントだったらしい。
母親から紅白饅頭&赤いゴムまり(当時は貴重品)を貰ったと聞いた事があります。「起源は2600年」と国威高揚の歌も良く口ずさんでいました。
金鵄(きんし→金色のトンビ)輝く日本🇯🇵の
栄(はえ)ある光身に受けて
いまこそ祝え この朝(あした)
起源は二千六百年
あゝ一億の 胸は鳴る
ご興味がある方はYouTubeで歌を拝聴する事が出来ます。日本中のあちこちに、当時の石碑が残っているようです。
今は西暦。当時は皇紀。昭和15年が皇紀2600年なので、この年に正式採用された、
日本海軍艦上戦闘機の命名が、末尾の0を取って零式艦上戦闘機。
零戦、ゼロ戦と呼ばれました。因みに米軍は識別コードネームはジーク。米兵はゼロと命名していたんだとか。
因みに日本陸軍が採用したのは、一式戦闘機で昭和16年正式採用。従って皇紀2601年なので、末尾1を取って一式戦闘機。
通称は隼(はやぶさ)。米軍コードネームは、オスカー。隼と零戦は同じエンジン(中嶋製作所製栄エンジン)を搭載した機体でした。
このくだりを書き始めるとキリが無いので、切り上げて、元のパン屋🥐を探して歩き回る、たぬき一家に戻しましょう。
坂を登りフェリス前を抜けて、代官坂上のトンネルを抜けた右手側にパン屋🥐があり、店前には行列が出来ていました。
周りは山手高級住宅街の一角。小洒落た飲食店も周辺にはポツポツ。パン屋の外で、かみさん、長女を待っていると道路の反対側に、窓が無い倉庫のような建物が。
なんか見た事があるなぁ?と記憶を辿ってたら、看板が!「横浜クリフサイド」ここだったっけ!当時はクルマで来ていたから、わからなかった^ ^
移転するとか?しないとかだったはずだったけど、ネットをググると廃業してしまったみたい。昔はジャスバンドやらソウルミュージックのバンドを入れて小洒落たダンスホールとして賑わっていた場所。
場違いのたぬき親父も悪友たちと出入りしていました。そこそこ入場料も高かかったけど、回数券を買うと割安入場出来た記憶が。
画像に写る建物の上部階が多分、VIPルームだったはず?もう、たぬき親父&猫ザルさんの世代しか記憶が無いかも^ ^
パンダ🐼さん&ペイトンさん世代だと、ダンパ(ダンスパーティ)やらパー券(パーティ券)とかの単語も死語。
高度成長期からバブル期を駆け抜けて、いまや廃墟と化しているのも、なんか寂しい。建物をレストランとか複合施設として残してくれないかなぁ。ダメだろうなぁ。
山手の異人館街を抜けて外人墓地に。更に先に進んだドン突きが「港の見える丘公園」で、たぬき親父が初めて、ここに来たのは幼稚園の遠足。
当時は世田谷区深沢に生息^ ^幼稚園の名称は深沢幼稚園。気に入らないと、幼稚園を抜け出して、家に帰ってしまう情緒不安定の問題児でした😆
1947年(昭和22年)昭和の流行歌「港の見える丘」が大ヒット。作詞者の歌詞には、「港の見える丘」は、何県のどこ?の記載無し。
作詞者の出身地は神戸だけど、港町と言えば、函館、横浜、神戸あたり。横浜の「港の見える丘公園」は1962年(昭和32年)に開業したもの。
流行歌にあやかって、港の見える丘公園と命名した後付け。テラス側からは、眼下に倉庫街、左手には横浜ベイブリッジ。
正面を遠望すると、ふれーゆ裏から見える、横浜火力発電所の2本煙突が。今日も誰かが、廻らないアジを求めてアクビ🥱をしている事でしょう。
バラ園がある西洋式庭園の先に、大佛次郎記念館があります。横浜市出身の流行作家で、代表作は、維新幕末のヒーロー鞍馬天狗。
エッ?知らない?まぁ、昔々のお話で今は忘れらたヒーロー。覆面物の走りで、黒の着流しに腰には刀大小を帯刀。
馬に跨り両手にはリボルバー式の拳銃。中立のポジションで庶民の味方。義に背いた行いがあれは、維新の志士、新撰組とも一悶着。
ヒーローモノの元祖なんでしょうね。無敵のヒーローには足枷になる、小僧の杉作がついているのも、後々ヒーローモノも真似してますから。
この記念館1階の喫茶店☕️で休憩。アイスコーヒーとチーズケーキ🍰で冷房で上昇した体温をクールダウン。
休憩を終えて、港が見える丘公園から下に降りる遊歩道を散策。そろそろ、時期も終わりの紫陽花が咲いていました。
この辺りは、通称フランス🇫🇷山。幕末期に生麦で薩摩藩行列前を横切ったイギリス人一行が無礼打ちになる事件が発生。
更に外国人を暗殺する事件も勃発した為、在留フランス人保護の為、横浜山手にフランス軍を駐留。
その後、官軍(薩摩藩、長州藩他)にはイギリス🇬🇧が肩入れ。幕軍にはフランス🇫🇷が肩入れして明治維新に。
明治29年にフランス領事館を建設。その後、領事館は関東大震災で倒壊、再度、建設。土地が日本政府に返還されたのは昭和46年。
結構、フランス🇫🇷政府に占有されていた場所なんだな、ココは。因みに野毛山は日本陸軍が駐留していたらしい。
領事館跡地の先にある場所に、「愛の母子像」が設置されています。これは、1977年9月27日に米軍海兵隊所属の戦術偵察機RF-4BファントムIIが横浜市青葉区荏田北の住宅街に墜落。住民9名が死傷した大惨事となった事件。
ファントムは並列複座式。搭乗員2名は緊急射出で脱出して無事。コントロールを失った偵察機は5km先の住宅街に墜落、爆発、炎上して大騒ぎに。
何も米軍基地問題は沖縄の専売特許じゃ無くて神奈川県でも大きな問題。神奈川県は鶴見区(鶴見貯油施設)、横浜港瑞穂埠頭(通称:横浜ノースドッグで米軍補給基地)、根岸(米軍住宅地区)、金沢区&逗子市(池子住宅&海軍補助施設で通称は池子弾薬庫)、座間市(海兵隊キャンプ座間)、厚木市(厚木飛行場)、横須賀市(海軍横須賀施設、吾妻倉庫地区、浦郷倉庫地区)など。
但し、返還された地域もあります。本牧居留地&山手居留地(通称:フェンスの向こうのアメリカ🇺🇸^ ^返還済み)、瀬谷区(米軍通信基地で返還済み)、相模原市(米軍補給基地&武器修理工場。返還済み)、横須賀市(長坂小銃射撃場。返還済みで現在は自衛隊射撃場)
厚木飛行場はボーイング747が離着陸出来る滑走路を持つ、広大な米軍飛行場。現在は自衛隊も利用。
当然、周辺空域は米軍が管理統括。だからかは不明ですが、神奈川県には民間旅客機飛行場はありません。
話が外れました。ファントムはエンジンと機体以外、機内に8つだったかな?燃料タンクを搭載した機体。
コレに大量のジェット燃料を搭載。空飛ぶタンクローリーみたいな機体。コレが機体故障で墜落したら当然、大惨事。
厚木飛行場を離陸したファントム。行先は、太平洋上の航空母艦ミッドウェイ。横須賀港に入港する前に、整備中の機体以外は、太平洋上で発艦させるのが米軍のお作法。
発艦した飛行機は厚木飛行場に着陸。横須賀港から航空母艦が出港するまで、機体は厚木飛行場で整備。
ところが、厚木飛行場を離陸した直後にエンジントラブルで墜落。搭乗員は脱出。機体は住宅街に墜落して爆発💥炎上。
当時は世論を揺るがす大問題に発展。米軍救助隊は住民被害は無視して、ファントムの機体、エンジン残骸回収に必死で世論からは、大ブーイング👎
横浜地裁での裁判に米軍、パイロットは出席せず。国家賠償請求、判決、賠償金支払いで
不本意ながらも決着。
「神奈川に米軍基地はいらない!」の世論が巻き起こり問題化。僅かずつではあるものの、米軍基地は返還されつつあるものの、同様の事故はいつ発生しても不思議じゃない状況化にあるのが現状です。
フランス山を降りると、右手にはメガドンキー。左手に進むと、改装が終了した、横浜マリンタワー。
閉鎖されて、敷地にはペンペン草🌱が生えてましたが、綺麗に整備されて、1階にはカフェ☕️がオープンしていました。
横断歩道を渡って山下公園に。初夏になったせいか?ジェットスキーのバカたちが公園岸壁まで寄って来て騒いでいました😆
山下公園外れにあったコンビニ&土産物屋が再オープン。足湯(水らしい💦)に浸かって横浜港が見えるオープンスペースも併設。
パンダ🐼さんが、ふれーゆ裏で海水足湯に浸かってるのと同じかな?まぁ、真水だし、塩素消毒するからプランクトンはいない^ ^