ふれーゆ裏たぬきのトリック仕掛釣り日記

横浜港奥の『昼間は釣れないふれーゆ裏』での夕まずめ釣りをメインに1年中、アジ嬢を追いかけまわしております。

講談、落語三昧の有給休暇^ ^前編(竿休め20220628)

箱根仙石原から帰宅した翌日は疲れを取る為、有給休暇を取得。しかし、さほど疲れてもいない為、上野&浅草と寄席ハシゴをする事にして自宅を出発。

今朝も横浜は朝から快晴。先ずは昼メシを東京大手町で取る事にして、朝メシを抜いて最寄駅より横浜駅経由で東京駅。

八重洲中央口から外に出て、大手町のKDDI本社ビル隣にある、スクェアビル地下1階にある、博多天ぷらやまみ大手町店に向かいます。

博多天ぷらやまみは、辛子明太子やまや系列のお店。大手町にも店を出したのは知っていましたが、大盛況らしく二の足を踏んでいました。

コロ助闊歩の更に数年前、かみさんと台湾台北旅行に行った際に、博多天ぷらやまみ台北店に入った事があります。

店員さんは全員制服。台北の店舗なのに、「いらっしゃいませ!ようこそ!」と日本語で挨拶。店内のメニューやポスターなども日本語。

他にもラーメン屋一風堂とか、寿司屋、牛丼屋、カレー屋とか、日本の飲食店が続々と進出していました。

台北の人達からすれば、日系飲食店は価格が割高なのに行列ができる程の盛況。昔、出張で来ていた時に台北支店の連中は生寿司🍣は食べられない、巻き寿司しか食べられないとか言ってたのに。

このお店は揚げたての天ぷらを次々に出すお店。しかも、やまや系列なので、辛子明太子とピリ辛高菜が食べ放。

同じ系列のお店で、みずほ銀行本店前の丸の内永楽ビル地下1階にある、博多もつ鍋やまやには良く行きますが、やまみは初訪問になります。

11:30過ぎに到着。数人が店舗前に並んでいましたが、さほど待たずに入店する事が出来ました。

魚🐟天ぷら定食を注文。ご飯、味噌汁、に辛子明太子とピリ辛高菜。辛子明太子フリークのたぬき親父からしたら、天ぷらはいらないぐらい^ ^

先に到着したのは、カボチャとナスの天ぷら。抹茶塩、塩、天つゆの3品から、お好みのモノでいただくスタイル。

魚はキス、イカ、アナゴ、エビの4種類で、野菜と合わせて計6品。加えて辛子明太子&ピリ辛高菜&ご飯が食べ放。

しかも、揚げたての天ぷらを食べられて、金額は1400円也。当然の事ながら、行列も出来るし混み合うわけだ。

天ぷらは揚げたてでサクサク。明太子効果で、ご飯2杯を食べて、店を出ました。

大手町からは腹ごなしを兼ねて、神田駅までのんびりと歩く事に。大手町から、日本橋川首都高速料金所前を越えて、神田商店街。

神田駅前の鰻屋うな正前にも、暑気払い?のリーマン行列が出来ていました。

神田駅から山手線に乗り、上野駅に到着。まだまだ外国人観光客がいない、アメヤ横町前を通って不忍池方面に。

不忍池に立ち寄ってみるとハスの葉が生い茂っていて池の水が見えない状態。一面の緑一色。もう、夏真っ盛りの風景。

昔々、横浜市内も港から奥地の大倉山界隈に入ると田んぼやら、ハス沼、遊水池ばかりの田園地帯。

小学生から成人するまで住んでいましたが、夏場はセミの鳴き声で、夜はウシガエルの大合唱。

朝方はカエルを飲んだヘビ🐍(青大将とかシマヘビ)が裏道にのびて朝寝。しっぽを掴んでブンブン振り回して小学校登校。

ポケットには、トノサマガエル。担任の先生からは、毎回、こっぴどく〆られたのは、周知の通りでございます。

ハスは汚れた水(不浄の環境)の中で育ち、大輪の花を咲かせる植物。ドブに落ちても根のある奴は、いつかは蜂巣の花が咲く、という奴だな。

出口付近の下町風俗資料館前あたりで、近辺を寝ぐらにしている、浮浪者男女がワイガヤと酒盛りの真っ最中^ ^

なんか楽しげ。不忍池公園外に出て通りを左手に歩くと、交差点右手にあるのが、鰻屋の銘店伊豆栄。

池上翔太郎が通いたおした鰻屋。一度だけ、たぬき夫婦も来た事がありますが、あまり、上野には来ないのでご無沙汰。

交差点を真っ直ぐに進んだ先の左手にあるのが、上野鈴本演芸場。今日は、それよりも先にある、お江戸上野広小路亭に。

本日開催されているのが、講談協会主催の「神田すみれ一門会」で、お弟子さんの前座、二つ目を含めた一門で開催。

因みに日本の(と言っても講談と言う、演芸は日本にしか無い^ ^)講談会は、講談協会日本講談協会、上方講談協会と全国で3団体。

発祥の歴史は落語よりも古くて、戦国時代ぐらいまで遡るらしい。何せ、ラジオもなければ、TVもスマホも無い時代。

情報は書物や書簡だけ。時の権力者達は、読み聞かせや語り部を手元に置いて楽しんだそうな。

これを御伽衆(おとぎしゅう)と呼んで重宝したらしい。時は流れて江戸時代になると、講釈師と呼ばれて街角で講釈をする辻講釈などが台頭。

次第に興行色を帯びて職業としても確立していき、興行小屋を持ち、江戸末期から明治初期に全盛期を迎えたらしい。

江戸末期には、江戸だけで800名の講釈師がいたらしい。夏場は怪談物、暮れには赤穂義士が定番だったそうな。

読み聞かせから始まった芸なので、講談師は浪人、学者あがりとかが多かったらしくて、当時、文字が読めるのは貴重なスキルだったらしい。

江戸末期に落語も発生して来て台頭してきたが、噺家と違い講談師は、先生と呼ばれて威張っていたそうな。

講談は落語と違い歴史上の史実を題材にしてデフォルメ。誇張するところは誇張して、強弱のリズムをつけて聞かせる技に発展。

落語には無い、座り机(釈台)があるのも、以前は本を置く本台だった名残り。(今でも題目によっては、本を置いて語る講談もあります。)

講談は語り部で、実在する歴史上の人物(那須与一宮本武蔵)が主体。史実を元に脚色、デフォルメして、演じる芸として確立。

ある程度の歴史の知識やら、時代物小説やらが好きな方なら、講談に入り込みやすいかも?知れません。

1度も諸国を漫遊した事がない、水戸光圀水戸黄門)が家来の角さん、助さんを引き連れ諸国漫遊、勧善懲悪ストーリーも、実は講談の読み物。

大岡越前の人情話(三方一両損、縛られ地蔵など)、有名な堀部安兵衛高田馬場仇討ち18人斬りなどなど。

落語は会話芸で、架空の人物(熊さん、留吉、与太郎など)が主体。

有名な川柳に、「講談師、見てきたような、ウソを言い」「講談を聴くと為になる、落語を聴くと、ダメになる」

講談は落語より枕言葉が少ない、尺が落語に比べて長いのも特徴。右手で張り扇、左手に講釈扇子。

張り扇で句読点、右手の扇子も合わせてリズムを取ったり、剣戟の小道具に使ったりと強弱をつける。

題目も戦記物、大名、剣豪、柔術、敵討ち、任侠、怪談、人情話など様々。時代劇ドラマ宜しく、数十話に渡る物も。

講談絶頂期に講談師の語りを速記して、本に仕立てた物が馬鹿受けの馬鹿売れして、その出版社は社名を講談社と改名。

隆盛を誇った講談も、浪曲、落語、漫談、漫才に押されて徐々に衰退。時は流れて昭和になり、庶民宅にラジオも浸透。

戦後、TVが隆盛を極めると、益々、講談は衰退。これでは、いかん!どげんかせなと、登場したのがポルノ講談。

発案、実演したのは、人気講談師、田辺一鶴の弟子の田辺夕鶴。ポルノ講談「金色夜叉」を講演。

その結果、田辺一鶴から破門を言い渡されて、田辺夕鶴は孤立。しかし、神田山陽一門に拾われて、「あまの夕つる」と改名。

更に芸風?はヒートアップ。源氏物語金瓶梅などを次々と講談の演目に取り入れて人気を博して、俳優としても活躍。

講談協会は容認派と拒否派で揉めた結果、講談協会日本講談協会に分裂してしまったと言う何ともお粗末な結果になり、現代に至っています。

前述しましたが、講談は落語、浪曲、漫談、漫才に徐々に水を開けられて、入門者も減少。

2022年現在、講談師は全国で102名程しかいません。因みに落語家は全国で800名程います。

内訳は、講談協会46名(男性18、女性28)、日本講談協会25名(男性6、女性19)。

上方講談協会16名(男性14、女性2)大阪講談協会9名(男性3、女性6)、なみはや講談協会6名(男性4、女性2)

女性が多いのは、アナウンサー&役者、声優志望で、講談師が主催する話し方講習に参加して感銘を受けた方が多いようです。

女性ならではの、良く通る声と柔らかさと繊細な所作で人情話などは男性講談師を凌駕する方も多い。

男性講談師は絶滅危惧種?のマイナー演芸だった講談ですが、時代が要求したのか、彗星の様に救世主、神田松之丞(現在は6代目神田白山)が登場。

難解な講談をまくらで面白おかしく、笑いを取り説明。講談に落語の要素も取り込み、修羅場は迫力満点のアクションと目力で観客を引き込みます。

またまた、横道に大きく逸れてしまいました。受付で木戸銭を支払い、靴を下駄箱に預けて3階に。

3階が寄席になり、70席程度の小さな寄席。壇上では前座の女性が、誰聞く事もなく等々と三方ヶ原軍記を演じていました。

演芸場の外にもスピーカーで聞こえていましたが、読み物としては難しい三方ヶ原軍記は前座さんが初めに習うネタ。

三方ヶ原の戦いは、徳川家康唯一の完膚無きまでの負け戦さ。

三方ヶ原軍記は武田信玄が大軍を率いて、上洛を企だてて、徳川家康の領地に侵入。

破竹の勢いで領地内を席巻して、尾張に向かう。手も足も出ない徳川家康浜松城に籠城。ガン無視して通過する武田軍団。

まだ血気盛んな徳川家康。家臣が引き止めるのも振り切って、手勢の軍勢を率いて三方ヶ原に入り込んだ武田軍団に追いすがる。

すると、武田軍は一糸乱れず、迎撃体制を整えて、徳川軍を包囲殲滅。徳川家康は討ち死にを覚悟したものの、忠臣の身代わりや捨て身の獅子奮迅の活躍のおかげで逃走。

徳川家康は恐怖のあまり顔は引き攣り、糞尿を漏らして浜松城に逃げ込んだ。

城門を開き松明を焚き並べて迎撃体制を整える。先を急いだのか?警戒したのか?武田軍団は浜松城を無視して西に向かう。

徳川家康は多くの有能な家臣を激情に駆られて、勝てもしない戦さで失った事を深く後悔し、絵師を呼び、その姿を描かせ、肖像画を生涯、戒めとしたと言う。

このネタは、リズムの取り方や話の強弱のつけ方、語り方の速度や滑舌、張り扇の叩き方などを習得する為のネタらしい。

とは言え、全て通しで実演すると全5巻の大作。6〜7時間もかかる長い演目。各流派によって、読み方も違うし、内容や調子も異なるらしい。

前座さんが講釈をしていましたが、応用も無ければ、ただただ、覚えた事を、一本調子で語っているだけ。覚えているだけでも凄いけど。

頃は元亀三年壬申十月十四日甲陽の太守武田大膳太夫晴信入道信玄、甲府に於て七重の調練を整ヘ其勢三萬余騎を従へ、甲州八花形の館を出陣なし云々。

現代文に訳すと、(そもそも、三方ヶ原の合戦は、)1573年1月14日、甲斐国の太守である武田大僧正信玄が、甲府において、その軍勢を召集。

七重のならしを整え、総勢3万余騎を従えて、甲州八花形の館を出発して云々。

講談を全く知らない人が聴くと、お経を読んでるみたいにしか聞こえません。また、意味もわからず難解。

真打ちクラスの講談師が読んでも、耳から入って風景や情景が浮かぶには、観客にも相当な?スキルが必要。

たぬき親父も例外では無くて、当然、何を言ってるのか?どの場面まで話が進んだのか?皆目、見当もつかなくなります。

やがて、持ち時間が来たらしく、挨拶をして、男性の前座にバトンタッチ。そして、開演の時間前に終話。

今回の講演は講談協会主催の為、出演する講談師は当然、同協会所属の講談師のみ。

本番は二つ目、真打ち、ベテラン真打ちと入れ替わりに演じるスタイル。観客はと言うと8割程度の入りで年寄りばかり。

当然、後になればなるほど、上手いのは当然の事。まぁ、中には??もいるのは、どんな業界でも同じ事。

13:00開演。先方?は真打ちの神田山緑先生で、47歳。講談界では、まだ若手の部類に入るものの、正統派の講談師。

生徒数200名を有する、講談教室主催者で、大学客員教授

演目は「大徳寺焼香場」。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変織田信長が自害した後の同年10月15日に羽柴秀吉によって行われた、盛大な信長の葬儀の模様を題材にした講談。

演目時間が長い読み物だけれども、持ち時間が少ない為、織田信雄織田信雄柴田勝家、そして信長の跡継ぎで本能寺の変の際に二条城で自害した、織田信忠の忘れ形見の三法師(後の織田秀信)を信長後継者と目論み、権力を掌握しようとする羽柴秀吉との鍔迫り合いを描いた物。

当然、これからと言う所で、講談の決め言葉の、「これからが物語が佳境を迎えるわけですが、ちょうど時間と相成りました。この続きはまたの機会に。本日はこれにて読み終わりでございます^ ^」

2番手は、二ツ目の神田こなぎささんで女性講談師。演目は、「落下の舞」でした。が、すみません。なんか、あんまり、興味が湧かない話で良く覚えていません^ ^

3番手は、神田山緑、神田こなぎ、神田薫花(敬称略)の師匠で神田すみれ会主催者の真打ち神田すみれ先生。

演目は「河村瑞賢」で、江戸時代初期に実在した商人の立身出世物語。天涯孤独の与八郎(後の河村瑞賢)は上方から江戸に。

品川宿で巾着をすられてしまい、一文無しにに。途方に暮れているところ、大八車を引く清吉に声を掛けられる。

高輪の大木戸を抜けるのに、荷車を後ろから抑える者がいると頼まれる。駄賃を頂戴する事で、引き受ける。

清吉に、一文無しである事を相談した与八郎。江戸っ子気質の清吉は口入れ屋の親方を紹介。与八郎は親方宅に居候する事に。

お盆の精霊馬のナスやキュウリの馬が捨てられてしまう事に着目。

親方の奥さんから紋付、袴を借りて、大八車に桶を積み込み、清吉と市中を廻り精霊馬とお供えのご飯を集めて廻る。

供養料を頂戴して、山の様に精霊馬を集める。お供えしていたご飯🍚を蒸した物と混ぜ合わせる。

お餅の様な物が出来上がり、蜜をつけると、甘酸っぱい不思議な物が出来あがる。これを折り箱に詰めて「酢甘」と名付けて販売。

すると、アッと言う間に完売。今度は精霊馬を細かく刻んで甘味噌に漬けた物を「やたら漬け」と名付けて販売。これも完売。

稼いだお金のほとんどを親方と清吉に分け与えて、僅かな分を懐に入れた与八郎。そのずば抜けた商才で麹町に商業学の塾を開く。

その後、上方に戻り、時の勘定奉行に抜擢されて士分となる。この時に姓名を改めて、河村瑞賢と名乗り、治水工事に才をふるい名を残すと言う、お話。

やはり、ずば抜けて講談は上手い。上手い講談師は落語の様な会話芸や表情の喜怒哀楽も難なくこなしてしまう。

噺家も講談師も伝えたい所を、まとめあげて面白おかしく、相手を引き込む芸達者だけが人気を維持できる厳しい世界。

前出のお弟子さんは師匠には、到底かなわないシビアな世界なんだなぁ。

中入り休憩後、神田すみれ一門では無くゲストで二ツ目に昇進したばかりの、一龍斎貞奈さんが登場。

落語家同様、講談師も、先ずは講談師真打ちに入門。入門を許可されると、前座見習い、前座、立て前座で約6年。

二ツ目に昇進してから、約6年間の後、講談協会理事会承認を得て真打ちとなり、先生と呼ばれる身分に。

前座見習いから、約12年間を経て一人前になる厳しい立て社会。真打ちになっても、仕事も自分でプロデュース。

一龍斎貞奈さんは、中央大学在学中からアナウンサーを志望。講談師主催の話し方教室に通う内に、一龍斎貞心に弟子入り。今年2022年に二ツ目に昇進したばかり。

演目は、「狩野探幽(かのうたんゆう)旅寝の落書き」。江戸時代初期の狩野派の絵師、狩野探幽が全国を廻り、絵師修行していた頃の逸話を題材にした、講談話。

身なりに構わず、托鉢坊主姿で気に入った場所に何日も逗留して写生に明け暮れていた、身なりを気にしない若き日の狩野探幽

とある宿場町はずれの旅籠に宿泊。あまりに汚い坊主姿に宿の主人は、初めは宿泊を断ったものの、宿賃先払いされて渋々、宿泊させる事に。

その旅籠に主人が新調した金屏風があり、まだ、屏風絵を描いた事がない狩野探幽が描かせてくれと頼み込むが、地元で高名な絵師に依頼済みだと拒否。

仕方無く床についた狩野探幽。しかし、諦めきれず、深夜に起きだして金屏風に勝手に墨で水墨画を描いてしまう。

完成して描き終えたところ、筆から墨のしずくが垂れたのを消そうとして、衣の袖で拭いたところ、筆のタッチより味わいがあるぼかしが出る事に気づいて一心不乱に書き上げる。

日の出と共に宿を逃走。金屏風に描かれた水墨画を見た宿の主人は乞食坊主に落書きをされた、泊めなきゃ良かったと落胆。

金屏風に絵を描く事を頼んだ絵師が登場して、狩野探幽が描いた水墨画を見て、出来映えを絶賛。主人にお金が取れる水墨画だとアドバイス

この金屏風のウワサは、瞬く間に周囲に広まり、宿は連日の大盛況。数年後には宿を増築して立派な老舗旅館に変貌。

上方で修行を終えて身なりを整えて、弟子を引き連れた狩野探幽。金屏風のウワサを聞いて数年ぶりに宿主人と対面。

大歓迎を受ける。筆を取った狩野探幽は、金屏風に署名、落款を捺して、絵を完成させる。益々、金屏風の評判があがり、宿は繁盛したと言う話。

なんか、落語の「抜け雀」に良く似た話だなぁ。此方の方が荒唐無稽では無くて、よりリアルな話だけど。

一龍斎貞奈さんは、まだまだ上手くはないし、緊張して硬さもあるけれど、表情も豊かで一生懸命。これからの若手講談師。

そして、トリを飾るのは、真打ちの神田董花先生。この方も表現力が豊かで上手い講談師でした。

演目は「朝顔日記」から「宇治川の蛍狩り」で、歌舞伎、文楽でも上演される、結構、有名な演目。

筑前福岡藩家老の娘、深雪と儒教学者宮城八十次郎の一行が宇治川の蛍狩りで、ちょっとした縁が元で恋仲に発展する展開になって行く出会いの一幕。

よくある話で、お互いに一目惚れしてしまうと言う、今も昔も変わらない、身分違いの道ならぬ恋と。今も昔も変わることが無い王道のストーリー。

この話を現代風にアレンジしてリニューアルすれば、純愛ドラマ仕立てになるような、話になるでしょうね。

これだけ聞けて木戸銭は1.5英世なんだから格安。つまらない映画見るよりも、遥かに割安です。

神田すみれ先生の見送りを受けて、上野広小路亭を後にして、真夏日の中、浅草演芸ホールに向かう、たぬき親父でした。(長くなりましたので、後半に続きます^ ^)