ふれーゆ裏たぬきのトリック仕掛釣り日記

横浜港奥の『昼間は釣れないふれーゆ裏』での夕まずめ釣りをメインに1年中、アジ嬢を追いかけまわしております。

2021年12月14日は泉岳寺義士祭^ ^(竿休め20211214)

時は元禄15年、師走半ばの12月14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流の陣太鼓。ひと打ち、ふた打ち、さん流れ。

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思わず、ハッ!と立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え、「おう、赤穂浪士の討ち入りじゃ!」

今回は赤穂浪士の事件について、疑問な点を

含めて、だらだらと書いてみました。釣りのネタ🎣じゃ無くて、すみません^ ^

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12月14日は、赤穂浪士討ち入り事件の日。朝からあいにくの雨です☔️。菩提寺の東京品川区の泉岳寺では義士祭が開催予定。

コロ助前までは、赤穂浪士討ち入り装束に扮した有志方々によるパレードやら、催し物やらでお祭り騒ぎのイベントでした。

ちょっと前まで、年末のこの時期には、赤穂浪士討ち入りの忠臣蔵ドラマや映画が放映されていました。

昨今の時代劇は、制作費高騰、ロケ地探しの困難さからすたれ気味。たぬき親父も子供の頃には、元禄太平記とか興味ナシ。

これは、やはり、学生時代の日本史授業が、あまりにも、つまらないモノだったからでしょうね。何とかしろよ!文科省

歳を喰って来ると、日本史は年号暗記だけじゃなくて、そこには様々な思惑やら、人生模様が見えてきて面白い。

赤穂浪士討ち入り事件(忠臣蔵城代家老大石内蔵助が主人公。なので、主君の敵討ちをした、忠臣のくらのすけだから忠臣蔵)では、長たらしいので、以後は忠臣蔵

この事件のあらましを現代的に、ザックリ紹介しましょう。事の発端は、播州赤穂5万3千石大名の青年大名、浅野内匠頭天皇勅使饗応役を任命された事によります。

1、赤穂藩の歴史と財政

赤穂藩は元々が広島藩の分家。浅野家は、元々、豊臣秀吉奥さんの実家。訳わかんない出自の秀吉が唯一頼れる親戚筋。

秀吉がうなぎのぼりに出世するにつれて、浅野家も、どんどん出世。秀吉亡き後は徳川に味方して広島藩42万6千石を所領。

赤穂藩は元々、現在の茨城県笠間市にあった笠間藩3万石を所有。ここから領地鞍替えで播州赤穂に。

石高も増えて万々歳。家来は笠間から雇われて来ているので茨城県出身者が多い。実は忠臣蔵で活躍したメンバーも大半は茨城県民。

でも、大金が転がり込むと無駄な出費が出るのが世の常。5万石程度の国持ち大名なのに、天守閣を備えた赤穂城を13年かけて築城。

更に城下町も造成。当然、スカポンタン横浜市ヨロシク財政は赤字転落。財政を保つ為に藩札(藩が発行するお札)を大量に発行。

2、3代目浅野内匠頭の刃傷事件

藩祖亡き後、2代目時代に親戚に石高3千石を割譲。1701年(元禄14年)3代目浅野内匠頭江戸城殿中、松の廊下で高家筆頭の饗応指南役、吉良上野介を斬りつける刃傷事件を起こします。

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知らせを聞いて、激怒した徳川5代将軍綱吉は即日切腹を裁決。当日夜に仙台藩伊達家分家の田村家(現在の東京新橋にある、切腹最中で有名な新正堂が跡地)庭先で切腹

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切腹の理由は、江戸城内で(天皇勅使来賓中、)場所柄もわきまえず、私闘を禁じられているにも関わらず、刃物を持ち刃傷に及んだ事、不届き至極、よって、云々。

主君処罰に漏れなく赤穂藩江戸屋敷明渡し、赤穂藩取り潰し、領地は全て没収の沙汰。

びっくらこいたのは、赤穂藩江戸家老、安井彦左衛門。使いを出して江戸城不浄門より、遺骸を引き取り、泉岳寺に埋蔵。

赤穂藩には、大石内蔵助、安井彦左衛門ら4名の家老がいました。財政担当は、大野九郎兵衛。

藩札発行で集めた借金約2万両。貸付け金回収やら借金返済に奔走。借金返済返済の目処をつけて、大野九郎兵衛一族は、何故かトンズラ。

以後、消息は不明。その後、歴史に出て来る事はありませんでした。(公金横領がバレそうになったなどウワサ多数有り)

浅野形家の家臣は200余名。若き主君が刃傷沙汰、お家取り潰しで、所領没収。家臣は全て即日解雇。

3、小田原評定

赤穂城では連日の会議。主君の弟である、浅野大学を立ててお家再興を幕府に陳情やら、城明け渡しに断固反対、徹底抗戦やら。

いやいや、幕府相手だよ?木っ端ミジンコじゃん。城を枕に抗議の殉死だ!と意見まとまらず小田原評定

結局、薬局、マツモトキヨシで、赤穂城明け渡し。家臣200余名に赤穂藩手持ち金を退職金がわりに分配、解散となりました。

当時はハローワークなんかありません。親戚、縁者等々、コネを頼って就活。侍は諦めて農民、商人などなどに転職。

下級武士程、蓄えが無いのは、今も昔も変わらず。スキルも無ければ甲斐性も無い^ ^この恨み辛みは何処にぶつける?

4、犯行動機

大石内蔵助他、家老職やら管理職が目指したのは、幕府に恭順して、浅野家再興を目指す事が一番。

そもそも、亡き主君の浅野内匠頭がなぜ、江戸城松の廊下で、高家筆頭の吉良上野介に刃傷に及んだのか?理由が全然わからない。

これは今もナゾなんだとか。様々な理由があるだろうと江戸時代から現代に渡るまで議論されていますが動機は不明。

浅野内匠頭乱心説

②賄賂が少なく無視された説 ③いじめられた腹いせ説

天皇勅使饗応意見の対立説

①は乱心して、何かのきっかけがあり切れてしまった。浅野内匠頭は名君では無く、神経質な癇癪持ちでプライドが高い人物説有り。

②は同じ饗応役に任ぜられた奥州伊達の分家、伊予吉田藩が、吉良に送った賄賂が大判200枚。現在の価値で、約2100諭吉相当。 一方の赤穂藩はと言うと大判1枚、絹1反、鰹節2本だったとか。

③事件後の風評、講釈&講談、歌舞伎の舞台化されて、陰湿ないじめにより、キレてしまった。吉良への賄賂が少なかった為とか、塩田製法を教えなかったとか、浅野内匠頭の奥方に横恋慕したとか。

浅野内匠頭は山鹿流兵学を学び、浅野家重臣も同様。政治学尊王派の学問。幕府より天皇勅使の饗応役を受けたのは2回目。

青年に成長した浅野内匠頭には、幕府=将軍より本来、天皇勅使は天皇名代なので席次も上だし、扱いも主人に対する礼をと主張。

饗応指南役の吉良上野介からしたら、室町幕府時代から天皇勅使と言えども、席次や扱いは将軍次席が通例だし将軍ご意向なので相手にしなかった。

この為、ないがしろにされた!と恨み、何らかの些細なきっかけで刀を抜き刃傷事件に及んだ。

5、立証

①の乱心は過去に無かった訳ではなく、その可能性は有りで捨て切れません。例えば、笠間藩が赤穂に国替えとなった理由がコレ。

赤穂藩は池田家の分家が治めていた領地。池田家藩祖は、織田信長に仕えていた池田輝元で、信長亡き後は秀吉家臣に。

秀吉亡き後は徳川家康の娘を奥方にしていた事もあり、徳川側に。播磨姫路65万石もの大大名になりました。

更に弟は印旛鳥取藩6万石、次男は備前岡山藩28万石、六男は淡路州本藩6万石と一族で92万石、検知では100万石以上。

赤穂藩は、五男が3.5万石で受領。跡継ぎが無く次男が継承。聡明で政治経済を上手く治めていたが、突然発狂。

奥方、女中を次々と惨殺。取り押さえられて蟄居閉門。お家は取り潰し、所領没収となりました。

そこに笠間藩から国替えされて来たのが、浅野家。その二代目が同様に後先考えずに発狂して刃傷騒ぎ。これは過去の因縁?

②も映画や芝居で良くある話。庶民は賄賂=悪だけど、これは饗応接待指南役の吉良に対する授業料と しての金額。 同じ饗応役の伊予吉田藩が大判200枚を吉良に?は、 眉唾物。伊予松山藩は3万石。赤穂藩5万3千石。 ここまで桁が違うのもありえない。

③饗応指南役の吉良上野介が陰湿ないじめは、無い事では無い。賄賂は当然の時代で、当たり前。 でも、多少、賄賂の額に差があったとしても、浅野がヘマをしでかせば、責を負うのは吉良。しかし、これも企業上役と部下でも恨み辛みは溜まるものです。

歌舞伎、映画、大河ドラマ吉良上野介は、もう、憎々しいまでのワル老人^ ^

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歌舞伎では、徹底的に内匠頭役を愚弄。「(右も左もわからぬ田舎侍が!)うろうろ、うろうろするうちに(井戸の中のカエルが大海を知らぬ世間知らずのように)鼻っぱしらを、ぶっつけて、うろうろ、うろうろするうちに、ぴりぴりぴりと死にまするじゃ。フナ(サカナのフナね^ ^泥臭い奴と侮辱)じゃ、フナじゃ、フナサムライじゃあ〜、ブアッハッハッハ、、、と。創作も凄い。

浅野も江戸城内で私闘により刀を抜けば、無事にすまない事ぐらいはわかっていたはず。それでも、刃傷に及んだのだ。

しかし、恨み言は残さずじまいだった。(供述したが抹消された?)武士は意をとなえるのは恥もあったのかも知れません。

④の説で刃傷におよんだ。コレもどうでしょうかね。これは①、②、③より薄いんじゃないかな?と言う気が個人的にはします。

尊王でも、直接の雇用主は徳川将軍家。主義主張はあれども、そこの指示に従うのは仕方がない事。

止むに止まれず、その抗議の為に吉良上野介に対して刃傷に及んだ。将軍家への抗議の為、なので私恨では無いから致命傷を与えなかった。

結果、取り調べで、尊王主張をしたが受け入れられず、狂人扱い。吉良もだんまりで、身に覚え無し。

主君は即日、切腹。吉良はお咎め無し。傷の養生をするように労わられる始末と、段違いの扱い。

浪人となった赤穂浪士は恨み辛みで、亡き主君の仇討ちとなって行く。てな、感じかな。

6、判決

浅野内匠頭は即日切腹。吉良はお咎め無し。これに浪人となった赤穂浪士は憤慨と言う流れに。

そもそも、私闘なんだから、喧嘩両成敗が大原則では無いか?吉良にお咎め無しとは?

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→吉良は江戸城内且つ、式典の真っ最中である事をわきまえて刀も抜かず手向かいもしなかったよ〜ん。で、他に何か?

吉良に対する積年の恨み辛みを主君は晴らしたまでの事。武士の体面を汚した吉良は万死に値する野郎で、罪に問われないとは何事。

→だって証拠ないモンね。浅野内匠頭は何にも言わなかったよ〜。

7、赤穂藩家臣の動き

討ち入りは、僅かに47名なので150余名は不参加。そもそも、仇討ちとは、武士に対して認められている超法規的措置

ところが、浪人となると武士では無くて、元武士。仇討ちをするには、まず、所属している藩に、仇討ち願いを提出。

藩は内容を確認してから、幕府に提出。認可されると仇討ち許可証を取得。今回は幕府裁定で浅野は切腹、吉良は無罪。

という訳で、正規の仇討ちは無理。徒党を組んで吉良を葬ったならば、死罪間違い無し。

それよりは、まずはお家再興。失業問題も解消するから、弟君の浅野大学を立てて幕府に申請。

上層部はお家再興。下層部は仇討ち。それ以外はリクルート^ ^と3分割。しかし、お家再興は却下。

不参加は多数。そもそも、君主が後先考えずにキレて、結果はお家取り潰し。自分たちはニート

他藩からリクルートされる人材は、あっさりと鞍替え。金がある奴は他の職業に鞍替え。

敵討ちを推奨しているのは、馬廻りの武士たち。馬廻りは主君を戦場で守る近衛兵のようなもので、主君にもお目見え出来る地位。

しかも武芸に精通した強者揃い。これに次ぐのが小姓やらの身の回りをする者たち。

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そして、浅野大学は広島藩預かりの沙汰が出て再興は頓挫。大石内蔵助は、ここで初めて仇討ちを決意し用意周到に準備を開始。

8、幕府の吉良家への扱い

何もお咎めが無かった吉良上野介でしたが、やはり世間の風は冷たかった様子。理由は不明だが高家筆頭を返上、隠居を申し出。

受理されて、呉服橋屋敷から本所に屋敷替えが沙汰される。本所は呉服橋と比べると当時は過疎地。

また、吉良上野介と親交がある仲間たちも、次々と罷免されて関係を断たれています。

9、資金調達

武器、武具、装束、江戸までの路銀、討ち入る浪士たちの生活費等々、とんでもなくカネが必要になる。

忠臣蔵の決算書」なるものが現代の会計士さんが出筆しています。これによると、掛かった費用は総額で700両。

現在の貨幣価値に換算して、1両12諭吉とするならば、8400諭吉と言う金額。何とかやりくりした、又は金を出す支援者がいたのかも?知れません。

結局、200余名の家臣がいても、47名以上の人数を揃えるのは予算的に無理だったのかも知れません。

10、仇討ちの大義名分

元禄14年3月14日午前10時ごろに、浅野内匠頭は、江戸城松の廊下で、吉良上野介に儀式用殿中拵え用の刀(刃渡り約25センチ)抜き放った。

何事か叫んで、駆け寄り、驚いて振り返った、吉良上野介のアタマに、太刀をふるい、額に約11センチの深い傷をつけた。

慌てて背を向けて逃げる吉良上野介を追い、その背中に刀をふるい、約18センチの浅い傷をつけたところを取り押さえられた。

傷の詳細は治療した医師が、克明に記録を残していたそうです。額の傷は6針、背中は3針で縫合。全治14日。

江戸時代264年間。この事件を加えて、江戸城内で発生した刃傷事件は7件。このうち、6件は相手を仕留めています。

未遂は浅野内匠頭ただ1件のみ。儀式用小刀で殺傷力がイマイチとかも言われますが、刃渡り25センチは893も利用するドス。

振り下ろしでは無く、刺したら無事にはすまない凶器。ましてや、そこそこに訓練を受けた武士ならばなおさら。

わざわざ江戸城内で刃物を抜く覚悟があるなら、なぜ、相手を仕留めなかったのか?士道不覚悟のヘタレだったのか?

尊王を履行しない吉良に対して、ワザと致命傷を与えなかった。何故ならば命を賭して、幕府に訴えたかったから。

みたいな説があるけど、ならばなぜ、家臣は主君浅野内匠頭の仇討ちをしたのか?無理があるし矛盾が。

単に激昂のあまり、刀を抜き放ち、怒りに任せて斬りつけただけのような気がします。

こんな後先考えない主君の為に、自分の命を掛けて、仇討ちなんて冗談でしょう?が、過半数

47人中、家老職は4名中、大石内蔵助ただひとりだけが参加。後は馬廻り衆と小姓、足軽など薄給で主君にお目見えも出来ない者。

若輩者、年寄りも多くて主力は35名程度しかいない有様。今の常識では考えられない事だ

けれど命より名こそ惜けれ。

主君は喧嘩両成敗の決まり事は無視されて、家来の自分たちは無職。空気読めない主君とはいえ、このまま笑い者で終われない。

赤穂武士の面目にかけて、たとえ失敗したとしても、幕府、吉良に目に物を見せてくれよう!と考えたんでしょうね。

主君が撃ち漏らした、上野介の首をあげる、首尾良く事をなせば、武士の本懐を遂げる事が出来るし、主君の面目も立つとゆう事なんでしょう。

10、討ち入り

討ち入り当日前夜の夜。あちこちに分散して屯していた、47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に向かい移動を開始。

江戸時代は市中見回りの役人やら、町内持ち回りの日番見廻りやらも徘徊。更に、あちこちに深夜の移動を禁じた、江戸市中の木戸(関所やね^ ^)もあり番人もいて深夜の移動は中々、困難。

火事場装束を身に着けていたのでスルーする事が出来た!とは言え、47人もの人数。しかも、完全武装した集団。

記録に見廻り、木戸門番に見咎められたとか、騒動があったと言うものが無いのも、不思議な事。

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で、吉良屋敷に到着。表門、裏門に人数を配置して、梯子をかけて屋敷内に入り込み、裏側から開門。守りの人数を残し屋敷内に。

後は歴史通り。見事、吉良上野介の首を上げて泉岳寺に凱旋。赤穂浪士側は死者ゼロ、重傷者1、軽症者2名だけど歩行に支障無し。

吉良屋敷には上杉家(吉良の息子が養子入り。上杉家当主が実の息子)からの派遣された武士を含めて、100余名。

損害は吉良側死者16名、重傷者16名、軽傷者8名。上杉家側の死者は2名とも、それ以上とも不明。(検証前に上杉家が引き上げたとも言われています。)

正に、圧倒的な赤穂浪士側の完全勝利に終わったわけです。用意周到な準備や鎖帷子に兜。又は鉢金やらの防具。

刀、槍、弓、照明器具などの準備。役割分担や采配など。組織的に一糸乱れずに完璧に行動した事。吉良側に油断があった事。

様々な要因があったし、当然、士気の差も歴然だった事を差し置いても、倍以上の戦力で迎え撃ち出来ずに木っ端微塵。

11、結末

泉岳寺より4組に分けられて、肥後熊本藩の細川家、伊予松山藩松平家壱岐長門藩の毛利甲斐家、三洲岡崎藩の水野家預かりに。

4家は赤穂浪士を手厚く接待したは、作り話しらしくて、実際は家内の座敷牢に監禁状態だったとか。

結局、4家にお預け後は、再び47人は再開することは無く、江戸市中を騒がし、禁じられた凶器を持ち、深川吉良屋敷に討ち入り、殺傷事件を起こす事、言語道断。よって云々。

死罪の打ち首では無く、武士として尊厳ある切腹と言う判決。では、赤穂浪士は浪士では無く、亡き浅野内匠頭の無念を晴らした忠臣、義士として認めたか?と言うと、さにあらず。

浪士を切腹後に幕府は、赤穂浪士の遺児達を連座制で過酷に処罰。

15歳以上の男子は島流し。しかし、その後、有識者の意見を取り入れて赦免。

今回の処罰は、吉良家にも及び、士道不覚悟につき、後を継いだ息子は、吉良家お取り潰し&所領没収。

たいした手向かいもせずに、やられっぱなしとは情け無い。武士たるもの、覚悟が無く、実ね父親の首を取られて、生き延びるなどは言語道断と言うわけ。

息子は、信州高遠3万石にお預けとなる。蟄居閉門、幽閉にされて、この地で数年後に病死となる。

切腹後に浪士が利用した寝具に至るまで、泉岳寺に持ち込み処分を依頼。時の住職は、全て叩き売っらしい。

その後、講談やら芝居(仮名手本忠臣蔵→平仮名47文字をもじり、仮名手本。忠臣の内蔵助で忠臣蔵)が江戸庶民ならず、大名やら武士にも絶大な人気を得ると、大金を出して義士となった赤穂浪士遺品を買い求める者が続出したそうな。

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泉岳寺も売却した数倍の金額で遺品を買い戻しを実施。泉岳寺では毎年の法要、整備された墓地で、浅野内匠頭とともに、赤穂浪士47名は静かに眠りについております。

46名が切腹。1名は足軽寺坂吉右衛門で討ち入り後の行軍中に行方不明に。大石内蔵助の命令により抜けた説有。天寿を全うした唯一の討ち入り浪士、墓は泉岳寺にあります。

なんだかんだと、書き連ねましたが、事件の真相は闇の中。果たして、真実は何だったのか?記録が乏しくてわかりません。

47人には、それぞれのドラマがあり、討ち入りに参加しなかった浪士にもドラマが。また、途中、直前で討ち入りを抜けた浪士にも、それぞれのドラマが。

思惑やら思惑やら欲やら。愛憎やらの当時の考えを思い馳せる時、歴史って面白い。様々な人間模様は今も昔も大差無い。

品川ゲートウェイ駅、京急泉岳寺駅近くに、泉岳寺があります。何かのついでに、立ち寄ってみるのも良いかも知れません。