ふれーゆ裏たぬきのトリック仕掛釣り日記

横浜港奥の『昼間は釣れないふれーゆ裏』での夕まずめ釣りをメインに1年中、アジ嬢を追いかけまわしております。

上野寛永寺の強者どもの夢の跡と野球の聖地^ ^(竿休め20220719)

7/19(火)は有給休暇を取得してお休み。一昨日の、ふれーゆ裏釣行の疲れも取れて、今日は11:30から上野広小路亭で開催される、日本講談協会主催の講談会を見るため、上野に出て来ました。

まだ開演までに時間がある為、上野駅公園口側に降りて、上野山をぶらぶらする事に。

公園口出口は綺麗に整備されていて、公園口出口には、待ち合わせ中の旅行代理店案内人の姿がちらほら。真っ直ぐ先は動物園。

上野山には、西郷隆盛翁の銅像が建立されております。除幕式の際に奥様が「ウチの旦那様に似ていない」と呟いた事で有名。

西郷隆盛翁の「敬天愛人」、天を敬い人を愛するの碑文と共に皇居方面に向けて建立されていますが、なぜ、上野山に西郷像?

西郷隆盛翁像の裏手には、上野戦争で戦死した、彰義隊の墓があります。西郷隆盛彰義隊討伐の陸軍前線の司令官でした。

この関係で西郷隆盛翁像が上野山に建立された、と言う事なんだそうです。怨念避けとかなのかな。

1868年(慶應4年)4月に勝海舟西郷隆盛の歴史的な会談で、江戸城無血開城を果たして、第15代将軍徳川慶喜は上野寛永寺に蟄居閉門。

当然、江戸城無血開城に反対する徳川幕府の面々は、浪士らを金で雇って上野寛永寺を拠点として武装して立てこもり。

勝海舟武装を解いて解散するように説得したものの、彰義隊幹部は臆病者よ、裏切り者よ!と、相手にせず。

呼びかけに応じて、その総兵力は3000〜4000名近くまで膨れ上がる。(一説には元新撰組10番組長原田左之助も加わったらしいが、彰義隊名簿に記載無し。名前を記入するヒマもなかった?)

とは言え、さすがに幕府も落ち目なのか、加担する者も少なく、寄せ集めの烏合の集。なんかもう、ショボい人数。

元々は、徳川慶喜を守護する為に結成されたのが、彰義隊と言う組織。この幕府軍と官軍との戦いが、上野戦争

長州藩大村益次郎を総司令官に置いき、前線指揮官西郷隆盛。総兵力は10000、前線は薩摩軍が主流の精鋭揃いで兵力は約3000。

直接の兵力においては、ほぼ互角の官軍と徳川幕府。官軍側では、援軍を待ち、大兵力で包囲殲滅を画策。

しかし、総司令官大村益次郎は、一計を案じて立て看板を設置。

恐れ多くも賢くも、一天万乗の天子様が率いる官軍に弓引く不埒者ども。5/15に上野寛永寺に総攻撃を開始するよ〜。

一切の手加減無しに、バチこりしちゃうから宜しく。by.官軍総司令官 大村益次郎

そうなると、びっくり仰天した上野寛永寺の雇われ浪士らは、我先に逃走。残った残存兵力は僅か1000名たらずの有り様。

1868年(慶應4年)7月4日未明、雨が降る中、官軍(薩摩軍)は寛永寺一帯を包囲。寛永寺黒門に攻め寄せて、雨中総攻撃を開始。

午前中は幕府軍も奮戦して、白兵戦の激戦状態になり、戦線は膠着。

しかし、正午から不忍池対岸に布陣した砲兵が、当時の最新鋭の榴弾を発射する、アームストロング砲で援護射撃を開始。

砲数は2、3台程度だったものの、最新鋭の後込めの大砲で、1分間に2発を発射。楽々と不忍池を飛び越えて幕府軍陣地に落下。

地上に落下すると爆発する榴弾は、被害以上に恐怖心を生み、統制を乱した幕府軍は後方に後退。

後退した所に幕府軍援軍を装った官軍が待ち伏せ。安心して近寄って来た、幕府軍を騙して徹底射撃。

総崩れとなり、上野の山を下り霧散してしまいました。この間、僅か半日足らずだったらしい。

厳しい追っ手を逃れた彰義隊は遠く蝦夷まで渡り、函館戦争に加わった者もいたらしい。

幕府軍被害は戦死266名、官軍36名余りで、一方的に幕府軍は壊滅。寛永寺は中堂、吉祥閣などが焼失、甚大な被害を被りました。

激戦地となった寛永寺黒門は現在も現存、丸っと移築されていて、荒川区南千住の円通寺で見る事が出来る様です。

あちこちに弾痕が残り、当時の激戦の様を見る事が出来る様です。

悲惨な内戦跡地ばかりでは無く、上野山には正岡子規記念球場なる球場があります。正岡子規は四国松山出身の有名な俳人

その正岡子規の名前をつけた野球場が何故?上野山にあるのか?正岡子規は東京帝大(現在の東京大学)在学時に、米国ベースボールに興味を持ち、ルールを和文に翻訳。

仲間たちを募って、ベースボール試合を開催した事でも有名なんだとか。司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも、その場面が描写されています。

ベースボールの訳は「野原でやる球技なので、野ボール、野球と命名」、現在でも、打者、走者、四球、直球、飛球は当時!正岡子規が翻訳して、名付けた物だそうです。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも、仲間たちと野球に興じる、正岡子規の様子が書かれていました。もっとも、運動神経はあまり良くは無くて、下手の横好きだったそうです。

上野寛永寺にお参りして、不忍池にある不忍池辨天堂(べんてんどう)にも、お参りしたら、先月は咲いてなかった蓮の花が咲いていました。

蓮の花は花が落ちた後は、種を持つ形状が蜂の巣に似ているから、蜂巣の花と言う別名がある通り。

不忍池の辺りにある公園では、パンダ🐼さんがアルバイト中。その近くでは骨董屋が数軒出ていて、露天市を開催していました。

不忍池を廻り、通りに出て、マックで早目の昼食を取りながら休憩。11:30前に店を出て、上野広小路亭に向かいました。